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「結果」が同じでも違う「アプローチ」と「プロセス」。

なにやら荘厳なタイトルの本日の「お題」ですが、よくよく読むと深いんだかくだらないのかよくわかりませんのでその点ご承知おきを。

さて、何の話かと言いますと、ご存じの方も多いと思いますが私は「ハゲ」です。

ツルッパゲに近いくらいで唯一の救いは頭の形が良いということくらいで、まぁ、ハゲです。

それでハゲってのは皆さん想像つかないと思いますが「メンテナンス」が重要です。私の場合は二週間に一度くらいのペースで散髪します。以前は自分で刈ってましたが、刈り残しがあったり、刈った後の毛が散乱したり、夏場だとベッタベタになったりと不自由でした。最近では「千円カットのお店」が増えてまして、近所に一軒見つけてからは少し遠くてもそこを使っています。ちなみにここは「理容系」ではなく「美容系」で「オッサン臭い床屋さん」とは違います。

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二週間おきに同じ店に行っているのですが、そこはチェーン店の性というか、毎回刈ってくれる人が違うんです。

ちなみに私のオーダーは常に;

「1mmの丸刈り」

です。

これ意外に頼みようが無い髪型なのですが、それにも関わらず皆さんアプローチが違います。

私は後頭部の襟足から頭頂に向けて刈るのが好みですが、サイドから刈り始める人、頭頂部から刈る人、前述した襟足から刈り始める人、などなど最低でも3パターンはあります。ほかに、前頭部だけを最初に刈るというパターンもありました。

むろんバリカン使用してますが、バリカンを持つ手もそれぞれ違いますし、空いているほうの手を頭に添えて刈る人、バリカンを持った手だけで刈る人などもいます。一瞬「後者は怠慢」なようにも思えますが、作業している視線は真剣そもののです。

そして、「プロセス」。

バリカンを何往復もさせる人もいれば、それぞれの部位を丹念に刈り込む人もいます。最後の仕上げに至っては小さなバリカンを使う人、さらにそれより小さいバリカンの計3つのバリカンを使う人もいます。

長々書いてますが、たかだか「1mmの丸刈り」です。

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シンプルなものほど奥が深いという見方もできますし、私の父親(現役の床屋)が言うには「坊主は面倒」という意見もあったりします。また、父親曰く「床屋の腕は刈った時ではなく『伸び始め』」とも言ってます。これはこれでなんかかっこいいこと言ってるわけですが、確かに一理あるんです。坊主と言えども髪の毛が均等に伸びるなんてありませんから、「伸び方」を計算して刈るというのはなかなかの技量です。

そう考えると結果が同じように見えても、実はアプローチやプロセスの違いによって違うことって世の中にはたくさんありそうです。また、そこには当然作業する人の技量や心構えも影響すると思います。

ちなみに写真でもこれと同じようなことはあって、同じライティングで同じ設定で撮っているんだけど人によって「なんか違う」ということは普通にあります。

いろいろとこうした違いが生まれる要因に心当たりがありますが、、、、それは秘密と言うことでw




「3」を基準に仕事する、という仮説。

年明けから体調崩しておりましたがやっと先週あたりから通常通りに近づきつつあります。

今回の風邪(たぶん)は本当に辛かった。

それでいささか唐突ですが本日の話題は「3」です。

何が言いたいかと言いますと、仕事の結果や、自分が「何か」に努力した結果が出るのは「3週間」、「3ヶ月」、「3年」という期間設定をするのは計画を立てる上で有効じゃなかろうか、と。

それで以前「石の上には『5年』ではないかい。」ということを書きましたが、より短期的と言いますか「結果としての『5年』」というよりは、具体的に「いつ(When)」を意識するか、というお話。

要するに今やっていることというのは3ヶ月後(※当然6ヶ月後、9ヶ月後にも繋がるのだけど)、もしくは3年後の結果に影響するという前提で行動する。逆に3ヶ月後、3年後に今とやっていること(質と量)が同じならばそれはダメということ。

そうは言っても日々忙殺されていたり、やらなきゃならないことが増えすぎると逆に機能不全を起こすことが多いわけでして、この辺は年齢に関係なく永遠の悩み。

そもそも1つのことに集中すると、そのプロセスで新たな課題が出てくるのが常でして、そうなると3ヶ月後とかなんて意識のどっかに飛んでいってるわけですな。ただ、そういうときこそ「今」がキツくても「3ヶ月後」をイメージすることが重要で、私の場合は辛ければ辛いときほどひたすら3ヶ月くらい先に思いを馳せて現実逃避しているわけです。

・・・・、などとこんなこと書いているヒマがあったら滞っている諸々の作業をやれよ、という話(T_T)




掃除は「準備」。

基本的にマメに掃除をするタイプですが、そこに加えてストレスと言いますか、考え事とか、精神的に不安定なときはとりあえず掃除しています。

こういう書き方すると「潔癖性」な奴と思われそうですが、実際のところトイレ行っても手を洗わないことも多々あるので違いますw単純に「心構えの問題」です。

私の場合、事務所の掃除もそうですが、それと以上にスタジオの掃除をすると気分が落ち着きます。

これはね、掃除したときも気持ちが落ち着きますが、「次に来たとき」の空気が違うんです。これは間違いない。

逆に、人を雇うときに、もし可能であれば掃除させると良い。なぜなら「掃除」は本当に深く、この掃除している所作でそいつの仕事力が分かります。これ、本当だよ。

掃除やらせてイマイチな奴は仕事させてもイマイチです。

掃除の「質」は掃除した人の「心構え」を表します。

そもそも掃除というのは「次の準備」であって、「後片付け」では無い。

もっと言ってしまえば「後片付け=準備」なのである。

ここを軽んじてる奴に未来はない。




価格で選ぶ人、価値で選ぶ人

年が明けてややしばらく経ちますが、私はこの5日間ほど体調を崩しております。。。

微熱と喉の痛みが取れず、業務にも少なからず影響が出ており日々焦る一方体調はさほど回復していないわけです。そんな中、対外的な当事務所の仕事初めとしてはこのブログと相成りました<(_ _)>

さて、新年一発目から辛辣なお話ですが世の中モノやサービスを買う人って2パターンです。

価格で選ぶ人、価値で選ぶ人

要するに「価格<価値」ならば買うというのが消費行動と言えるのですが、実際のところそんな価値観は人それぞれなので一概には言えません。また、こうした消費者は何かしら(経験則含め)「比較対象」を持っているのでその比較となります。

それでなんでこんなことを書いているかというと写真業なら今も昔も変わらない「撮影料に関する議論」において先日、某カメラマンから聞いた「あるある話」をご紹介。

モデルさんのプロフィール写真の撮影依頼があり、撮影料を15,000円提示したところ「高いので遠慮します」と言われたそうな。

さて、ここで「15,000円」は高いか安いか?

そんなの誰にも分かりません。

そもそも聞かれたのは「価格」であって「内容」ではないのです。

このカメラマンも別にふっかけてやろうと思った訳でもないし、このカメラマンの技量はさておき、私の知る限りでは自宅スタジオを使用し、撮影に三時間、その後のセレクトやレタッチに半日くらいは費やす人であることは知っている。なので「価格設定高いですかね?」と聞かれたので「そんなことはないんじゃないのかな」と答えた。これだけの手間と時間をかけるなら15,000円はむしろ割安と見るほうが正常かと思うがいかがでしょうか?(※最終的に客が満足する前提での話ね)

ただ、ここで気になったというか、これまたよくある話なのだけど、モデルとして活動していながらプロフィール写真に15,000円の支出が高いと感じたそのモデルの見識を疑う。もっと言ってしまえばこういう人は「売れない」。なぜならプロフィール写真というのは宣伝材料であり「一人歩きする」いわば自分の「分身」なのだから。

モデル選びの現場の最初は「ブック」を見て決める。また、選ぶ方は無数の候補者のブックを見てるわけで、当然選ぶ側の人たちは目が肥えているし、見る視点が違う。欲しいイメージ通りのモデルさん、という前提はあるが、少なくとも綺麗とかカワイイだけで選ばれることなんてないと思う。ただ、「迷うケース」は多々あり、こういうときにプロフィール写真の「質」が影響すると思う。

要するにプロフィール写真にお金かかっている人というのは仕事に対する姿勢も現れる。似たようなモデルがいて、安っぽいスナップ写真とちゃんと考えて撮られた写真のプロフィール写真のモデル。この二者なら後者が選ばれる可能性が高いと思う。なのでプロフィール写真というものはこうした外見以外の仕事に対する姿勢など一緒に見られていると思うくらいの覚悟が必要なものだと思う。

ちなみにだけど、いまどき証明写真をそこいらの写真館で撮ってもらっても5千円くらいはする。証明写真といえば年中同じ場所に設置された機材とそれなりのカメラを使い、パートかアルバイトが撮影しているアレである。あれでもそれくらいはしている。

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一方、世の中には「価格だけ」で決める人が多いのも事実で、こういう人たちと関わると幸せになれる可能性は低い。そもそも価格というのは定量化されており、比較しやすい。総じて自分では何も考えない人に多い傾向なのだけど。

また、売る側も「安く売る」というのは簡単で効果も出やすい。ただ、これまた自分で何も考えない人たちの傾向ではある。

いずれにせよ価格で選ぼうが、価値で選ぼうが、そこに明確な答えがあるわけではないと思うのだけど、少なからずその両者の「違い」を意識しておくだけでもビジネスや日常生活の中で選択肢が増えると思います。




「不惑の四十」についての解釈。

先日の日曜日に、久しぶりに友人のヨッシーと呑んだ。

ヨッシーとはなぜか年に二回ほど二人きりで呑むのがここのところの恒例になっている。私はさておきヨッシーは従業員300人規模の会社の社長さんなのでその忙しさは尋常ではなく、会う度にお互い年齢と共に責任が増えるというか、互いの状況は変わっている。

それでいろいろ話していて「不惑の四十」の話になった。

ヨッシーは38歳で私が41歳。そこで私が言ったのは;

「『四十にして迷わず』というのは何かを悟わけではなく、単に選択肢が無いから迷わなくなるだけ。」

ということ。

あくまで私の個人的な解釈なのだけど、別に40歳になって何かを悟なんてことはなく、一方、正直なところ今も昔も「40歳」というのは悲しいことにあらゆる可能性が減っている年齢ということである。

そこで前述した「選択肢がないから迷わない」ということ。

それだけのことだと思っている。

可能性や選択肢があるから人間は迷うのであって、そうした可能性や選択肢が無ければ迷いようがない。それを「不惑の四十」なんて言うから何やら「悟りの境地に達する年齢」のように解釈されているようだが、それは違う、と。

いささか悲観的な解釈に思われるかも知れないが、恐らくこれは揺るぎない事実でもある。

逆に、選択肢が無いので考え方はシンプルになり、物事に集中しやすくなるというメリットはある。

なので意外と20代や30代のときとくらべて「迷うことがない」ので精神的には心地良かったりする。




自己満足

9月頃から月に一度「三千円撮影会」というのをしてまして、公にしてませんでしたがこれはプロフィール写真や家族写真を三千円で撮影しますよ、という当事務所主催のイベントでした。

当然、「三千円」で撮影してもろもろ損益なんて合うわけもなく、むろんマイナスでした。ただ、これはマーケティング的な要素と、12月に今年の締めくくりとして「東日本大震災の義援金集め」がしたかったからです。

さほど公にしているわけではありませんし、FBで知人友人に声をかけた程度ですので、毎回三組ほどお越し頂き、結局最後も三組お越し頂いて終了しました。

集まったのは「9千円」

です。正直ショボイ金額だと思います。でも、「お金」も大事ですがあのとき私は何もできなかったし、こぞってカメラ担いで被災地に向かうような青臭いことをするようなカメラマンでもありません。

ただ、あのときずーーっと思っていたのは「必ず何かやろう」、「みんなが忘れた頃に何かやろう」と思っていたのは確かで、それをやっと具現化できた、と言ったところでしょうか。

集まった金額は大した金額ではないのですが、告知することで少なくとも数百人の人に「東日本大震災」について再度思い返す機会を提供できたと思います。また、日本赤十字社の東日本大震災義援金の受付は平成26年3月31日(月)までです。

世間は「フィリピン台風」に関心が行っているようですが、どうもそこに違和感があります。別にフィリピンが嫌いとかそういうことじゃなくて、「みんなもう忘れてんじゃないの?」ということです。

「みんなでフィリピンを助けよう!」みたいな風潮を否定はしませんが、東日本大震災含め「災害の傷跡」というのは癒えることなんてないんじゃないでしょうか。お金も大事だけど「忘れないこと」のほうが大事だと思います。

いずれにせよ、今年やろうと決めていたことの一つが完了したので少し肩の荷が下りました。

他人からすれば「自己満足」にしか見えないんでしょうし、批判的なことも言われそうですが、少なくともここを読んだ方たちには「東日本大震災」を思い出して貰うきっかけにはなったと思います。

ご協力いただいたみなさんありがとうございました<(_ _)>




婆ちゃんの命日

ふと、早朝。先月の数字のとりまとめしながら、

ああ、今日(12/3)は父方の婆ちゃんの命日だな、と。

人の死、というものに直接関わったのが父方の婆ちゃんで、確か64歳くらいで亡くなったんじゃなかっただろうかと記憶している。

もう30年以上前の話である。

その後、父方の爺ちゃん、母方の爺ちゃん婆ちゃんもとうに亡くなっているのだが、やはり12/3というのは私の中で特別な日である。そもそもほかの爺ちゃん婆ちゃんの命日なんて覚えていない(ただ、年の瀬だったことはかすかに覚えている程度)。

そうは言いつつ私も40年以上生きているわけで、すでに両親は件の婆ちゃんの年齢を越えていまも健在だし、私もどちらかといえばすでに死んだ婆ちゃんの年齢に近づいているんだなぁ、と思うと感慨深い。

いままで人の死に接していない訳でもないし、葬式という奴に出たことが無いわけでもないのだが、取り立てて喪服という奴を来て行かなくてはならない相手ではなかった。

なので未だに喪服を持っていない。

この年齢にして喪服もってないという社会性もいささか疑問ではあるが、でも、このまま喪服を買わずに終われればそれはそれで幸せなのになぁ、といつも思う。




「誰でもできる」は自信の裏返し。

最近、Youtubeで「イシバシレシピ」を見るのがマイブームである。

名だたる料理人がそれぞれの得意料理のレシピを披露するという番組で、オンエアしていたころは深夜だし、さほど興味なかったのだけどこうしてみると実に面白い。

石橋貴明が自分のレシピを紹介したあとに、各料理人のレシピを披露するという番組の流れ。

さて、この動画↑は「竜田揚げ」となっているが実は唐揚げで、登場する料理人は「つる寿」というどこぞの料亭の料理人らしい(ググったけど店のHPは無さそう。ただ、名店であろうことはその他のサイトで散見した。)。

それでこの人の作る「竜田揚げ(なぜ竜田揚げかは動画内で語ってます)」が超シンプルなのね。醤油に30秒くらい絡めるだけであとは片栗粉付けて揚げるだけ。

でもね、この一連の動作にけっこうな技術と経験がてんこ盛りなのよね。それに終始話す内容はつねに論理的。それで、この動画の17:10あたりで;

「どなたにもできます。」

と言ったの。私はこの一言でちょっとしびれたw

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世の中には簡単なことを難しく言う奴ってわんさかいるの。だいたいこういう連中って大したことの無い技術や知識を「さも誰にでも真似できないです。」みたいなフリして言うのよ。それでその「些細なことをたいそう難しそうに見せる話し方や仕草」は一流なのね。

それで私の場合はそういうのを見ると「こいつ大したこと無いわ。」とか「自信ねぇーんだな。」って思うことが多い。特に「知識武装してる奴ほどアホ」なの。

でも、たいそうなことをサラーっと説明して「誰にでもできますよ。」って言う人ってのは本物が多い(※「誰でも簡単に儲かります」、みたいなのは単なる詐欺なので違いますよw)

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少なくとも私の知っている本物の人たちは事も無げに「簡単だよ」とか「誰でもできるよ」って言います。もうね驚くほどに。しかも誰よりもわかりやすい説明をしてくます

でも、それって紐解くと自信の裏返しだし、「実際にやろうとする奴がいない」ことの証拠でもある。

また、実際のところこうして話してくれる人たちの意識ってすでに「違うところ」にあって、もう自分には不要な知識や技術だから人に教えていると思う。すなわち、そういう人たちはもっと凄いことをやろうとしているといつも思ってしまう。




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